俺カルブログ vol.1 前編 T&E SOFT─個人と企業の文化的地層
- 俺カル

- 10月15日
- 読了時間: 9分
更新日:10月19日
■地方発・兄弟創業のゲームメーカー
「俺カルブログ」シリーズ第1回は、中京地区の“俺たち”の誇り──T&E SOFTを取り上げる。この企業が多くのゲームファンや開発者をトリコにし、現在まで続く世界のゲーム文化の大きな礎となった事を、改めて個人的視点から深堀したい。
1982年、名古屋市千種区にて、横山俊朗・横山英二兄弟によって創業されたこの企業は、後にゲーム文化の地層に深く刻まれる存在となった。
社名の「T&E」は、当初は兄弟のイニシャルに由来していたが、やがて「Try & Exciting」、さらに「Technology & Entertainment」へと意味を変化させていく。その言葉の変遷には、企業としての成長と、時代に応じた“語り方”の模索が見て取れる。
二人の父・横山義視氏は、岐阜県各務原市那加にて那加中央劇場を経営していた人物であり、名古屋では中日本映像株式会社というビデオ機器代理店も営んでいた。

この点については『月刊コピライト』1996年8月号P31「この人に聞く 横山俊朗」にて、「各務原出身で実家は映画館を営んでいた。ちょうどそのときに私の弟も大学を卒業したものですから、一緒に実家の方に戻りまして、弟が映画館を継ぎまして、私はビデオの会社をやるようになったんです」との証言がある。
また1980年の映画館名簿を調査したところ、那加中央劇場(経営者:横山義視)が該当した。さらに同誌には「父親の会社である中日本映像株式会社の一事業部として、資本金を貯めて、1982(昭和57)年10月に独立して会社法人化した」との記述もある。

なお一部では、T&E SOFTが一宮市で写真館やレンタルビデオ店を営んでいたという説も存在するが、調査ではその出典は確認できておらず、現存の一次資料に基づく限り、発祥には各務原が大きく関係していたと判断している。
ちなみに、那加中央劇場跡の横山ビルから約2.4kmの場所に、現在ゲームメーカーの日本一ソフトウェアがあるというのは、偶然とはいえ興味深い。

さてT&ESOFT創業のきっかけは、弟・横山英二氏がPC-6001向けに開発したゲームを雑誌『I/O』に投稿し、掲載されたことに始まる。
その後、同誌出版元の工学社の関連会社を通じてパッケージ販売され、印税収入が兄弟の手元に入ったことで、1982年に法人化に至った。
つまりT&E SOFTは、個人の創造力が企業化された典型例であり、地方発の創造力の象徴でもある。

その後、T&ESOFTは、「3Dゴルフシミュレーション」やT&Eの名を世に知らしめた「スターアーサー伝説シリーズ」(『惑星メフィウス』『暗黒星雲』『テラ4001』)を通じて、国産SFアドベンチャーの先駆者としての地位を確立した。
このシリーズはグラフィックとストーリーテリングの融合により、当時のユーザーに強烈な印象を残した名作である。

■ 個人開発から企業へ──時代の空気
1980年代前半は、PCゲームの大きな転換期となった。その転換点を明らかにするため、前述と重複する部分もあるが改めて記載したい。
1982年(昭和57年)、横山英二氏は工学社のパソコン雑誌『I/O』に、NECのPC-6001シリーズ向けゲームのプログラムリストを投稿し、掲載された。このゲームは後にパッケージ化され、販売によって兄弟の手元に印税が入り、T&E SOFT創業のきっかけとなった。
1983年(昭和58年)からは、PC-6001以外の多機種展開を開始。2月に発売された『3Dゴルフシミュレーション』がヒットし、T&Eは名実ともに「地方発・兄弟創業のゲームメーカー」として動き出す。
この流れは、まさに個人の創造力が企業活動へと昇華していく時代の空気を象徴している。雑誌投稿から始まり、パッケージ販売を経て法人化へ──そのプロセスは、後に続く多くのアマチュア開発者たちにとっての道標となった。

1984年には、内藤時浩氏がほぼ一人で開発した超名作ARPG『ハイドライド』が登場。
もともと彼も『I/O』誌にゲームを投稿していた有名アマチュア開発者であり、入社わずか1か月後には『コスモミューター』を完成させている。なお、『ハイドライド』の発売は同年12月であることから、いかに離れ業をやってのけたのかご理解いただけるだろう。
このように、個人開発の情熱が企業の商活動と結びついた成果物である『ハイドライド』は、T&Eの販売網と内藤氏の創造力が融合したことで、PCゲーム史上に残る全国的なヒット作となった。
これは、同時期にエニックスから『ドアドア』を発表した中村光一氏にも通じる。彼もまた、個人開発者として注目され、後にエニックスの看板クリエイターとなり、現在のスパイク・チュンソフトの創業者となった。
このように、1980年代前半は「個人から企業へ」という創造力の転換点だった。雑誌投稿文化、アマチュア開発者の台頭、そして地方企業による受け皿の存在──それらが交差することで、日本のゲーム文化は大きく動き始めた。このようなソフトハウスが次々と起業し、独自の流通網を作り上げていくことになる。この流れこそが、現在のゲーム市場への萌芽となったのだ。
T&E SOFTはその象徴のひとつであり、各務原の映画館と名古屋の映像機器会社からゲームメーカーへと至った家業の変遷もまた、時代の空気を映す鏡だった。


■ブランド化とジャンル横断の挑戦
1985〜1987年、内藤氏を開発の中心に据えて、T&E SOFTは『ハイドライドII』『III』などを自社開発・販売した。従来のARPGでは採用されていなかった職業選択や時間・食事などの概念を導入し、大ヒット商品となった。
なお、『ハイドライド』は国内で100万本突破を公称した最初期のゲームである。その大ヒットにより、ゲーム市場は活況を呈し、爆発的に成長した。その躍進は広く注目を集め、多くの企業がゲーム分野への参入を本格的に検討する契機となったのだ。


1986年には『ディーヴァ』シリーズが登場。PCやファミコンを問わずマルチプラットフォームで異なる視点から物語を描くという、初の試みとも言えるゲームの一つである。とはいえストーリーは、シヴァ・ルドラの圧政から宇宙を救うという非常に簡単なものであり、複雑な人間関係があるわけでもない。シミュレーションとしても単調であり、惑星攻略のアクションゲームに至っては、一本調子にもほどがあった。
同時期、T&E SOFTはジャンルを問わず「何でも屋」的な挑戦を始めていた。シューティングゲーム『レイドック』シリーズやレースゲーム『グレイテストドライバー』などがその代表例で、いずれも高い技術力を駆使した意欲作ではあったが――
ただ、ここからは完全に俺の主観なのだが、どうにも爽快感が乏しい。シューティングにしても、プレイヤーが敵弾をかいくぐりながらオプション武器を慌ただしく選ぶという謎の戦術性が前面に出ていて、ステージ構成もどこか単調で、正直飽きが来る。開発陣から「1ドットぬるぬるスクロール」のエクスタシーを味わってくれと言われても、ピンと来なかったのだ。
レースゲームも同様に、爽快な操作感よりも疑似3D表示や「全然曲がらないリアル(?)な挙動」が重視されていたように思う。正直、当時14歳だった俺には「おもしれー!」と素直に言い切るには微妙な距離感があった。
とはいえ、市場的には良作評価を受けていたし、セールスも順調だったようだ。俺が感じた違和感は、あくまでプレイヤーとしての主観に過ぎない――。

■POLYSYSで“10年食えた”──T&E技術の力
1989年、『遥かなるオーガスタ』で導入された3D描画技術「POLYSYS」。端的に言えば、3Dの高速描写を可能にするプログラムである。開発には、MSX版『ハイドライド』の移植や『スターアーサー伝説』シリーズで知られる加藤英治氏がスーパーバイザーとして参加しており、社内では「この技術で10年は食える」とまで豪語されたようだ。
実際、この技術は1990年代を通じてT&E SOFTのゴルフゲーム群の中核を担い続けた。
しかも、PCゲームだけでなくスーパーファミコンといった家庭用機にも応用され、プラットフォームを越えて活用されたというのだから、技術的な汎用性と先見性は本物だった。
当時、ゴルフゲームに関してT&E SOFTのブランドはすでに確固たるものとなっており、SFC版『遥かなるオーガスタ』の販売価格は9,800円。当時のスーファミ界隈では最高クラスの価格帯である(※後年はこのくらいの価格帯のゲームも多く発売された)。
もちろん、高度な技術力や緻密な設計が価格に反映されているのは間違いない。
ただ、そこにはどこか「これは子供が気軽に買うものではない」という割り切りが感じられる。このことからもT&E SOFTは、プレイヤーの裾野を広げるよりも、“わかる人に届けばいい”という職人気質で勝負していたように思う。


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