俺カルブログ vol.1 後編 T&E SOFT─個人と企業の文化的地層
- 俺カル

- 10月15日
- 読了時間: 11分
更新日:10月21日
■ファンとの交流を重視する先進性
『遥かなるオーガスタ』の高価格設定や、ファンの要望とややズレた技術偏重の姿勢など、T&E SOFTには独特のこだわりがあった。しかしそれでも、彼らは決してファンを無視していたわけではない。むしろ、ファンとの接点を重視する姿勢は、当時のソフトハウスの中でも際立っていた。
多くのソフトハウスが、小さなレンタルスペースや地元の小売店で交流会を開いていた時代に、T&E SOFTは「ATTACK」シリーズという大規模なファンイベントを展開していた。それは単なる製品発表会ではなく、「体験型カルチャー」として設計された場であり、ファンが企業と直接触れ合える貴重な機会だった。
さらにこの規模感は、メディアからの取材対象にもなりやすく、イベント費用以上の広報効果を生む合理性も備えていた。つまり、「ATTACK」はファンとの交流と企業広報を両立させた、先進的なイベント戦略だったと言える。
このシリーズは1980年代後半を通じて展開され、T&E SOFTが「何でも屋」としてジャンルを横断しながらも、ファンとの距離を縮めようとする姿勢を貫いていたことを象徴している。
T&ESOFT「ATTACK」イベント年表
(1985〜1988)確認できたイベントを掲載

■ATTACK’88 IN SUZUKA──少年の原体験
当時のツレがT&E SOFTユーザーズクラブで、鈴鹿まで遠征するのに、ついてきてほしいと誘われたことをきっかけに、俺はこのイベントに参加することができた。
1988年夏、鈴鹿サーキットで開催された「ATTACK’88 IN SUZUKA」は、T&E SOFTが仕掛けた「体験型カルチャー」の集大成とも言えるイベントだった。
参加者によるカートレースの後に、屋内会場で発表されていた『グレーテストドライバー』は、会場の熱気も相まって「めちゃくちゃ面白そう」に見えた。しかし後日に購入して、実際にプレイしてみると、当時「本格派」と評された理不尽な操作性がどうにも肌に合わず、歯ぎしりするほどの落胆を味わった。
さらに印象深かったのが、会場で披露されたT&Eファン会員向け配布CD収録曲「ダンシング・エビフライ」(CD収録はカラオケのみ)の歌唱パフォーマンス。
俺自身も今では企業広報の仕事をしているが、ティーンだった頃に見た「よぴかぱ」こと吉川氏の姿は、今でも忘れられない。緊張のあまり、かすれた声で歌い上げるその姿は、まるで“やらされ仕事”に耐える企業人の悲哀を体現しているようで、若かった俺には衝撃だった。どこか痛々しく、でも目が離せなかった。
とはいえ、当時の吉川氏は非常に人気があり、各誌で引っ張りだこだったこともよく覚えている。ファンとの距離を縮めようとする姿勢は、時に滑稽で、時に真剣で、確かに誠実だった。
大人になった今ならわかる。あの場に立つことの緊張感、企業の顔として笑われることの覚悟、そしてファンに何かを届ける責任。
あのイベントは、俺にとってただの思い出ではない。「広報とは何か」「ファンとどう向き合うか」──まだ何者でもなかった俺に、そんな問いを突きつけてきた原体験だったのだ。

マイコンBASICマガジン 1988年10月号P344 T&EPRESS番外編より ATTACK’88 IN SUZUKAの開催をレポートしてあるのだが写真が少ないんじゃ。写真だとカートしか映っていなかったが、100インチモニターで映像を流したりと華やかな展示会で、14歳の俺を血迷わせGDを購入させてしまう罪つくりなイベントだった。
■『ヴァーチャルハイドライド』という異物と、T&Eの迷走
1980年代初頭――T&E SOFTは、まさに「何でも屋」の実験場だった。1984年に登場した『ハイドライド』は、ARPGというジャンルの地平を切り拓き、翌年には『スターアーサー伝説』でSFと幻想文学を融合。1986年にはゲームジャンル横断型のシミュレーションゲーム『DAIVA』シリーズを展開し、個人の情熱と技術が直結した創造のるつぼが形成されていった。
その『ハイドライド』は、日本のゲーム文化において「物語のあるアクションRPG」という新たな地平を切り拓いた。続く『II』『III』では、世界観の拡張とシステムの深化が進み、プレイヤーは「語られる世界」を自らの手で探索する体験を得た。T&E SOFTは、物語と技術が融合した稀有な開発集団として、ファンの信頼を築いていった。
1989年、『ルーンワース』が登場する。
ファンの多くはこれを「ハイドライドの正統継承」として受け止めた。実際、神話体系から国家構造、魔術理論に至るまで、設定資料の密度は圧倒的だった。
俺も当然、期待度MAXでプレイを始めた。だが、開始早々キョトンとすることになる。
敵を倒しても報酬も経験値もなく、レベルアップは宝箱に依存するというゲームシステム。
そして、あれほど緻密に構築された世界観が、プレイヤー体験の中でほとんど活かされていない。設定と体験が噛み合わず、なんとも中途半端な感覚だった。
あの密度は、語られるべき物語ではなく、参照されるだけの背景になってしまった。
この瞬間、俺の中で「ハイドライドの系譜」は断絶した。

マイコンBASICマガジン 1988年9月号 中央見開き付近広告(T&E SOFT/ページ番号なし) 広告にはハイドライドに次ぐとの明記や経験値が消えた等の記載がある。このゲームをやってハイドライドがなくなったという喪失感を感じたのは俺だけではないはず。
1991年にはスーパーファミコン向けに『NEW 3D GOLF SIMULATION 遙かなるオーガスタ』を発売。以降、家庭用ゲーム機への適応が進み、T&Eは徐々にゴルフゲーム専業化と、組織的開発へとシフトしていく。技術的にはPOLYSYSによる3D描画など高水準を維持していたが、ファンクラブは前年1990年に終了し、ATTACKイベントも幕を閉じる。
そして1996年――『ヴァーチャルハイドライド』が登場する。セガ主導の開発で、T&Eの名は残っていたが、内容はかつてのハイドライドとはまったく異なるものだった。リアルタイム3D描画、ランダム生成マップ、そして何より、画面に映るのは外国人のおじさんが中世風の衣装で延々とコスプレしている“実写映像”だった。
この「コスプレおじさん」は、ファンが期待していた「ハイドライドの世界観」とは根本的に異なる。かつてのハイドライドは、ドット絵で構築された「語りの余白」があり、プレイヤーはその余白を埋めながら世界を体験していた。だが『ヴァーチャルハイドライド』では、語りの余白は実写映像によって強制的に埋められ、プレイヤーの想像力は排除されていた。
『ヴァーチャルハイドライド』は、T&E文化が断絶した事実の“可視化”だった。ブランドは残っていたが、語りは失われていた。かつてのT&Eが持っていた「語りの力」は、ここではもう機能していない。ハイドライドの名を冠しながらも、それは「ハイドライドではない何か」だった。

■「何でも屋」の実験場が喪失した「らしさ」の核
──T&ESOFTの文化的断絶
改めて、1980年代のT&E SOFTは、「何でも屋」の実験場だった。RPG、シューティング、ゴルフ、レース、描画ツール、イベント開催──ジャンル横断と技術挑戦を繰り返しながら、個人の情熱が企業文化を駆動する稀有な開発集団として存在していた。またATTACKイベントやファンクラブ誌面を通じて、ユーザーとの語りの場も形成する企業文化が確かに流れていた。
その中心にあったのが『ハイドライド』だった。1984年の初代作は、アクションRPGというジャンルを日本で確立し、続く『II』『III』では世界観とシステムの深化を通じて、「T&Eと言えばハイドライド」という金看板を築き上げた。これは単なるヒット作ではなく、T&Eの象徴であり、「らしさ」の核でもあった。
だがT&Eは、『ルーンワース』『ヴァーチャルハイドライド』によってこの金看板を自ら手放すことになる。「何でもできる」という柔軟性は、「何をすべきか」を見失う危険と隣り合わせであり、核を失ったことで「T&Eらしさ」は語れなくなっていった。
90年代以降、T&Eはゴルフゲームの専業化や家庭用機への適応を進め、創造性よりも収益性・安定性を重視する企業体へと変化していった。
ただし、これはT&Eだけの問題ではない。1990年代は、大手メーカーの台頭、開発費の高騰、ユーザー層の変化など、中堅ソフトハウスにとって極めて厳しい時代だった。語りの力を持った企業文化は、ゲーム市場の構造的圧力の中で徐々に解体されていった。
■ 再編と消滅──そして伝説へ
再ブランド編成を行うために、1997年にスクウェア社からの援助を受けるといったように、会社としては苦しい時代となった。さらに紆余曲折を経た2002年、社名を「ディーワンダーランド」に変更し、ゲーム事業を分離する。2005年には株式会社ディープ(DEEP)が設立され、同社は内藤氏が所属することでT&E SOFT正統の流れとなる。ディープ社は、T&Eの商標権を取得し、ゴルフゲーム開発を継続した。
2013年、エニックスの看板プログラマーであり、『ドラクエ』のメインプログラマー中村光一氏が創業したスパイク・チュンソフトに吸収合併され、T&E SOFTは正式に解散を迎えた。T&E SOFTを援助し、その最期を見届けたのも、昭和のソフトハウスを源流とする盟友企業だったという事実は、せめてもの救いであり、物語の円環を感じさせる。
こうして、ゲームの可能性と未来を示唆し続けた偉大なるT&E SOFTは幕を閉じた。だが、その偉業も、迷走っぷりも、そして語りの力も、俺たちの記憶の中に確かに残っている。ジャンルを越え、技術を磨き、ファンと向き合いながら、彼らは世界に広がるゲーム文化を大きく育てた、第一級の功労者だった。
T&E SOFTは消えた。しかし、語りは終わっていない。ドット絵の余白に想像を重ねた日々は、今もなお、俺たちの中で語られ続けている。

■T&E SOFT ゲーム開発年表(1982〜2013)
※俺独断選考 代表作・技術・文化的意義・販売タイトル ※アークスシリーズは除外


コメント