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俺カルブログ vol.1 後編        T&E SOFT─個人と企業の文化的地層 

更新日:10月21日


■ファンとの交流を重視する先進性

『遥かなるオーガスタ』の高価格設定や、ファンの要望とややズレた技術偏重の姿勢など、T&E SOFTには独特のこだわりがあった。しかしそれでも、彼らは決してファンを無視していたわけではない。むしろ、ファンとの接点を重視する姿勢は、当時のソフトハウスの中でも際立っていた。

多くのソフトハウスが、小さなレンタルスペースや地元の小売店で交流会を開いていた時代に、T&E SOFTは「ATTACK」シリーズという大規模なファンイベントを展開していた。それは単なる製品発表会ではなく、「体験型カルチャー」として設計された場であり、ファンが企業と直接触れ合える貴重な機会だった。

さらにこの規模感は、メディアからの取材対象にもなりやすく、イベント費用以上の広報効果を生む合理性も備えていた。つまり、「ATTACK」はファンとの交流と企業広報を両立させた、先進的なイベント戦略だったと言える。

このシリーズは1980年代後半を通じて展開され、T&E SOFTが「何でも屋」としてジャンルを横断しながらも、ファンとの距離を縮めようとする姿勢を貫いていたことを象徴している。


T&ESOFT「ATTACK」イベント年表

(1985〜1988)確認できたイベントを掲載

イベント名

会場

主な内容

1985年11月

ATTACK'86 IN AKIHABARA

ラジオ会館8階ホール

『ハイドライドII』『レイドック』発表・試遊

1986年8月

ATTACK'86 IN NAGOYA

愛知青少年公園

屋外ゲーム大会「体感ハイドライド」

1986年11月

ATTACK'87 IN YOYOGI

代々木公園野外ステージ

『ディーヴァ』完成発表会

1987年11月

ATTACK'88 IN ALTA

新宿アルタ

創立5周年記念発表会・浅倉大介による演奏

1988年8月

ATTACK'88 IN SUZUKA

鈴鹿サーキット

『グレーテストドライバー』発表・カート大会

マイコンBASICマガジン 1988年9月号 中央見開き付近広告(T&E SOFT/ページ番号なし)ATTACK’88 IN SUZUKAのイベント告知と入場引換券。
マイコンBASICマガジン 1988年9月号 中央見開き付近広告(T&E SOFT/ページ番号なし)ATTACK’88 IN SUZUKAのイベント告知と入場引換券。

■ATTACK’88 IN SUZUKA──少年の原体験

当時のツレがT&E SOFTユーザーズクラブで、鈴鹿まで遠征するのに、ついてきてほしいと誘われたことをきっかけに、俺はこのイベントに参加することができた。

1988年夏、鈴鹿サーキットで開催された「ATTACK’88 IN SUZUKA」は、T&E SOFTが仕掛けた「体験型カルチャー」の集大成とも言えるイベントだった。

参加者によるカートレースの後に、屋内会場で発表されていた『グレーテストドライバー』は、会場の熱気も相まって「めちゃくちゃ面白そう」に見えた。しかし後日に購入して、実際にプレイしてみると、当時「本格派」と評された理不尽な操作性がどうにも肌に合わず、歯ぎしりするほどの落胆を味わった。

さらに印象深かったのが、会場で披露されたT&Eファン会員向け配布CD収録曲「ダンシング・エビフライ」(CD収録はカラオケのみ)の歌唱パフォーマンス。

俺自身も今では企業広報の仕事をしているが、ティーンだった頃に見た「よぴかぱ」こと吉川氏の姿は、今でも忘れられない。緊張のあまり、かすれた声で歌い上げるその姿は、まるで“やらされ仕事”に耐える企業人の悲哀を体現しているようで、若かった俺には衝撃だった。どこか痛々しく、でも目が離せなかった。

とはいえ、当時の吉川氏は非常に人気があり、各誌で引っ張りだこだったこともよく覚えている。ファンとの距離を縮めようとする姿勢は、時に滑稽で、時に真剣で、確かに誠実だった。

大人になった今ならわかる。あの場に立つことの緊張感、企業の顔として笑われることの覚悟、そしてファンに何かを届ける責任。

あのイベントは、俺にとってただの思い出ではない。「広報とは何か」「ファンとどう向き合うか」──まだ何者でもなかった俺に、そんな問いを突きつけてきた原体験だったのだ。


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マイコンBASICマガジン 1988年10月号P344 T&EPRESS番外編より ATTACK’88 IN SUZUKAの開催をレポートしてあるのだが写真が少ないんじゃ。写真だとカートしか映っていなかったが、100インチモニターで映像を流したりと華やかな展示会で、14歳の俺を血迷わせGDを購入させてしまう罪つくりなイベントだった。

 

■『ヴァーチャルハイドライド』という異物と、T&Eの迷走

1980年代初頭――T&E SOFTは、まさに「何でも屋」の実験場だった。1984年に登場した『ハイドライド』は、ARPGというジャンルの地平を切り拓き、翌年には『スターアーサー伝説』でSFと幻想文学を融合。1986年にはゲームジャンル横断型のシミュレーションゲーム『DAIVA』シリーズを展開し、個人の情熱と技術が直結した創造のるつぼが形成されていった。

その『ハイドライド』は、日本のゲーム文化において「物語のあるアクションRPG」という新たな地平を切り拓いた。続く『II』『III』では、世界観の拡張とシステムの深化が進み、プレイヤーは「語られる世界」を自らの手で探索する体験を得た。T&E SOFTは、物語と技術が融合した稀有な開発集団として、ファンの信頼を築いていった。

1989年、『ルーンワース』が登場する。

ファンの多くはこれを「ハイドライドの正統継承」として受け止めた。実際、神話体系から国家構造、魔術理論に至るまで、設定資料の密度は圧倒的だった。

俺も当然、期待度MAXでプレイを始めた。だが、開始早々キョトンとすることになる。

敵を倒しても報酬も経験値もなく、レベルアップは宝箱に依存するというゲームシステム。

そして、あれほど緻密に構築された世界観が、プレイヤー体験の中でほとんど活かされていない。設定と体験が噛み合わず、なんとも中途半端な感覚だった。

あの密度は、語られるべき物語ではなく、参照されるだけの背景になってしまった。

この瞬間、俺の中で「ハイドライドの系譜」は断絶した。


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マイコンBASICマガジン 1988年9月号 中央見開き付近広告(T&E SOFT/ページ番号なし) 広告にはハイドライドに次ぐとの明記や経験値が消えた等の記載がある。このゲームをやってハイドライドがなくなったという喪失感を感じたのは俺だけではないはず。


1991年にはスーパーファミコン向けに『NEW 3D GOLF SIMULATION 遙かなるオーガスタ』を発売。以降、家庭用ゲーム機への適応が進み、T&Eは徐々にゴルフゲーム専業化と、組織的開発へとシフトしていく。技術的にはPOLYSYSによる3D描画など高水準を維持していたが、ファンクラブは前年1990年に終了し、ATTACKイベントも幕を閉じる。

そして1996年――『ヴァーチャルハイドライド』が登場する。セガ主導の開発で、T&Eの名は残っていたが、内容はかつてのハイドライドとはまったく異なるものだった。リアルタイム3D描画、ランダム生成マップ、そして何より、画面に映るのは外国人のおじさんが中世風の衣装で延々とコスプレしている“実写映像”だった。

この「コスプレおじさん」は、ファンが期待していた「ハイドライドの世界観」とは根本的に異なる。かつてのハイドライドは、ドット絵で構築された「語りの余白」があり、プレイヤーはその余白を埋めながら世界を体験していた。だが『ヴァーチャルハイドライド』では、語りの余白は実写映像によって強制的に埋められ、プレイヤーの想像力は排除されていた。

『ヴァーチャルハイドライド』は、T&E文化が断絶した事実の“可視化”だった。ブランドは残っていたが、語りは失われていた。かつてのT&Eが持っていた「語りの力」は、ここではもう機能していない。ハイドライドの名を冠しながらも、それは「ハイドライドではない何か」だった。

世界観を崩壊させた“コスプレおじさん”の登場に打ちのめされ、最後に映し出されたT&E SOFTのロゴがとどめとなった。あの瞬間、俺たちのT&Eは本気で終わったんだと、静かに悟った。
世界観を崩壊させた“コスプレおじさん”の登場に打ちのめされ、最後に映し出されたT&E SOFTのロゴがとどめとなった。あの瞬間、俺たちのT&Eは本気で終わったんだと、静かに悟った。

■「何でも屋」の実験場が喪失した「らしさ」の核

──T&ESOFTの文化的断絶

改めて、1980年代のT&E SOFTは、「何でも屋」の実験場だった。RPG、シューティング、ゴルフ、レース、描画ツール、イベント開催──ジャンル横断と技術挑戦を繰り返しながら、個人の情熱が企業文化を駆動する稀有な開発集団として存在していた。またATTACKイベントやファンクラブ誌面を通じて、ユーザーとの語りの場も形成する企業文化が確かに流れていた。

その中心にあったのが『ハイドライド』だった。1984年の初代作は、アクションRPGというジャンルを日本で確立し、続く『II』『III』では世界観とシステムの深化を通じて、「T&Eと言えばハイドライド」という金看板を築き上げた。これは単なるヒット作ではなく、T&Eの象徴であり、「らしさ」の核でもあった。

だがT&Eは、『ルーンワース』『ヴァーチャルハイドライド』によってこの金看板を自ら手放すことになる。「何でもできる」という柔軟性は、「何をすべきか」を見失う危険と隣り合わせであり、核を失ったことで「T&Eらしさ」は語れなくなっていった。

90年代以降、T&Eはゴルフゲームの専業化や家庭用機への適応を進め、創造性よりも収益性・安定性を重視する企業体へと変化していった。

ただし、これはT&Eだけの問題ではない。1990年代は、大手メーカーの台頭、開発費の高騰、ユーザー層の変化など、中堅ソフトハウスにとって極めて厳しい時代だった。語りの力を持った企業文化は、ゲーム市場の構造的圧力の中で徐々に解体されていった。


■ 再編と消滅──そして伝説へ

再ブランド編成を行うために、1997年にスクウェア社からの援助を受けるといったように、会社としては苦しい時代となった。さらに紆余曲折を経た2002年、社名を「ディーワンダーランド」に変更し、ゲーム事業を分離する。2005年には株式会社ディープ(DEEP)が設立され、同社は内藤氏が所属することでT&E SOFT正統の流れとなる。ディープ社は、T&Eの商標権を取得し、ゴルフゲーム開発を継続した。

2013年、エニックスの看板プログラマーであり、『ドラクエ』のメインプログラマー中村光一氏が創業したスパイク・チュンソフトに吸収合併され、T&E SOFTは正式に解散を迎えた。T&E SOFTを援助し、その最期を見届けたのも、昭和のソフトハウスを源流とする盟友企業だったという事実は、せめてもの救いであり、物語の円環を感じさせる。

こうして、ゲームの可能性と未来を示唆し続けた偉大なるT&E SOFTは幕を閉じた。だが、その偉業も、迷走っぷりも、そして語りの力も、俺たちの記憶の中に確かに残っている。ジャンルを越え、技術を磨き、ファンと向き合いながら、彼らは世界に広がるゲーム文化を大きく育てた、第一級の功労者だった。

T&E SOFTは消えた。しかし、語りは終わっていない。ドット絵の余白に想像を重ねた日々は、今もなお、俺たちの中で語られ続けている。


MSXFAN 1989年1月号P97──T&E SOFT特集のこの表紙は、俺たちファンの記憶に刻まれた金字塔。地方発の企業が当時の業界を動かしていた時代の証として、現在もゲーム文化の重要な一頁として輝いている。
MSXFAN 1989年1月号P97──T&E SOFT特集のこの表紙は、俺たちファンの記憶に刻まれた金字塔。地方発の企業が当時の業界を動かしていた時代の証として、現在もゲーム文化の重要な一頁として輝いている。

■T&E SOFT ゲーム開発年表(1982〜2013)

※俺独断選考 代表作・技術・文化的意義・販売タイトル ※アークスシリーズは除外


出来事・タイトル

備考・文化的視点

1982

T&ESOFT創業(名古屋市千種区)

横山兄弟による創業。『I/O』誌投稿がきっかけ

1983

『3Dゴルフシミュレーション』

初期ヒット作。技術と遊びの融合が始まる

1984

内藤時浩氏 T&E入社(2月)

アマチュア投稿から商業開発へ。柔軟な受け入れ体制


『コスモミューター』(5月)

内藤氏の商業デビュー作。短期間で完成


『ハイドライド』(12月)

ARPGの原点。“構想3日・制作3ヶ月”の伝説

1985

『ハイドライドII』

「道徳と魔法とボクシングが融合した、昭和の異端児RPG。

1986

『ハイドライド・スペシャル』(FC)

東芝EMIより発売。家庭用市場への本格参入


『ATTACK’86 IN NAGOYA』開催

「体感ハイドライド」実施。ファンクラブ文化の象徴


『レイドック』(MSX2/FM77AV/MZ-2500)

“魅せてあげよう、1ドットのエクスタシー”。縦スクロール+RPG要素の融合

1987

『ハイドライド3』

シリーズの集大成。宇宙的スケールへ拡張


『DAIVA STORY1〜5』

多元宇宙構造の野心作。ジャンル横断の試み


『スーパーレイドック』

元祖の発展形。演出強化と2P合体システムの深化


『アシュギーネ 虚空の牙城』

ADV的演出と世界観構築。浅倉大介の音楽も話題に


『ATTACK’87 IN YOYOGI』開催

DAIVA完成発表会。代々木公園での野外イベント

1988

『グレーテスト・ドライバー』

実車レース連動。ATTACK’88 IN SUZUKAと連動


『サイオブレード』

サイバーパンクADVの先駆け。演出とUIが革新


『レイドック2 ラストアタック』

シリーズ続編。演出強化と難易度調整


『T&Eマガジン ディスクスペシャル』

ファンクラブ向け特典ソフト。文化的記録物


『ATTACK’88 IN SUZUKA』開催

実車レース大会+新作発表。体験型イベントの極致

1989

『遥かなるオーガスタ』

POLYSYS登場。3Dゴルフゲームの金字塔


『アンデッドライン』

妖精拾って武器強化!死線を笑って駆け抜ける地獄RPGシューティング


『スーパーハイドライド』(MD)

海外展開も含む。シリーズの新たな挑戦


『ハイドライド3 闇からの訪問者』(FC)

ナムコより発売。家庭用向け再構築版


『T&Eマガジン ディスクスペシャル2』

ファンクラブ文化の継続と深化

1990

クリスタルソフト救済合併

T&E大阪開発部設立。RPG系の強化へ


『エイト レイクス G.C.』

NEW 3D GOLF SIMULATION第2弾

1991

『ワイアラエの奇蹟』

ゴルフSIMの深化。実在コースとの連携

1992

『ペブルビーチの波濤』

海外コース導入。POLYSYS黄金期の象徴

1993

『デビルズコース』『マスターズ Augusta2』

ゴルフSIMの演出強化とブランド確立

1994

『T&E VR GOLF ワールドグリーン』

VR表現の萌芽。技術的挑戦

1995

『ヴァーチャルハイドライド』(4月)

セガサターン向け。シリーズの3D化。二度見したくなるゲーム

1996

ブランド迷走期突入

T&E名義の作品に外部開発が混在し始める

1997

スクウェアが資本支援・兄弟会社化

ブランド再編が始まる。開発体制の変化

1998

『遥かなるオーガスタ for Windows』

Windows対応。PC市場への再進出

2000

『ゴルフパラダイス』『ゴルフパラダイスDX』

カジュアル層向け展開。ブランドの多様化

2002

社名変更:株式会社ディーワンダーランド

ゲーム事業は分離。旧T&Eとして扱われる

2005

株式会社ディープ設立(内藤氏)

商標権取得。ゴルフゲーム開発を継続

2006〜2008

『ゴルトモ』『みんなのGOLF場』『ROUND LEADER』

モバイル・SNS連動型ゴルフ展開。時代との接続

2010

『百選オープンゴルフ』『遙かなるニコゴルフ』

Web連動型。文化的継承と再解釈

2013

スパイク・チュンソフトに吸収合併

T&ESOFT、正式に解散。俺たちの心に残る。


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