top of page

日本のゲームガラパゴス vol.2    サン電子クロニクル【前編】

創業の地、愛知県江南市にあるサン電子の元本社。現在は名古屋市に移転
創業の地、愛知県江南市にあるサン電子の元本社。現在は名古屋市に移転

■ 面白そうなことは全部やる男の話 1971-1995

はじめに ──この男の話をしなければ始まらない 前回の岐阜県編の末尾で、俺はこう予告した。


「第2回は、中部ゲーム界の原点にして、岐阜ゲーム文化の"秘伝スープ"を作った存在──SUNSOFT(サンソフト)。一次資料をもとに、その実像に迫る。」


だから今回はそれをやる。

ただし、SUNSOFTを語るには、その親会社である「サン電子株式会社」から語り直さなければならない。なぜならSUNSOFTは、サン電子のゲーム部門ブランドに過ぎないからだ。本体はサン電子であり、ゲームはこの会社が手がけた無数の事業のうちのひとつに過ぎない。

そしてサン電子を語り始めると——これが、ものすごい話になる。


券売機。パチンコ管理。コーヒーマシン。麻雀。アーケードゲーム。農民ゲーム。ファミコン変態技術。台湾PC市場の半分を制圧。ゴルフ場で爆死。モデム屋。パチンコ液晶の中枢。イスラエル買収。FBIのiPhone疑惑で株価4割急騰。ナスダック上場。香港ファンドに叩き起こされる。農民ゲームで令和に復活。


一社の話か、これは。

答えは「一社の話」だ。しかも本社は、ずっと愛知県江南市にある。

今回はそのサン電子の前半生——創業から、アメリカで静かに爆死する1995年まで——を追う。



■前田昌美という男(1933〜2024)

SUN電子HPより抜粋。創業者の前田政美氏、この人を無しにしてSUN電子は語れない
SUN電子HPより抜粋。創業者の前田政美氏、この人を無しにしてSUN電子は語れない

まず、この人物を押さえておかなければならない。

前田昌美。1933年(昭和8年)12月14日生まれ、愛知県江南市出身。2024年5月10日、満90歳で逝去。

戦前の江南市に生まれ、戦後の高度経済成長をエレクトロニクスで駆け抜け、バブル崩壊も、リーマンショックも、インターネット革命も全部くぐり抜けて、90歳まで生きた。

「時代のエレクトロニクスへの変化を予見し、サン電子を創業した」という公式の一文は、あっさりしすぎている。「時代の変化を予見した」という言葉は、後から振り返ったときにだけ許される表現だ。当時の前田には、未来など見えていなかったはずだ。ただ「面白そうだ」と思ったものに、次々と手を突っ込んでいった。

そのベンチャースピリッツにあふれる社風は、前田昌美氏を始め、設立間もない時期に入社した社員などを中心として、チャレンジ精神の旺盛な人材が多く集まったことから形成された。

要するに、前田という磁石に引き寄せられた変人たちが集まって会社になった。それがサン電子だ。

SUNSOFTクロニクルより抜粋。江南の地で産声を上げたサン電子。 電子機器業界が前途洋々たる時代に前田氏がその先見の明で事業化した。
SUNSOFTクロニクルより抜粋。江南の地で産声を上げたサン電子。 電子機器業界が前途洋々たる時代に前田氏がその先見の明で事業化した。

■江南市という土地


ここで少し、土地の話をしたい。

愛知県江南市。名古屋から北へ約20キロ、名鉄犬山線で30分ほどの場所にある市だ。人口約10万人。これといった観光資源もなく、全国的な知名度は低い。

しかしこの土地の周辺を地図で眺めると、面白いことに気づく。

北には岐阜県各務原市(重工業の街)北東には犬山市(城下町)、西には一宮市(繊維産業の都)、南には名古屋市。木曽川と宮田用水が網の目のように張り巡らされた、尾張平野の真ん中だ。農業と中小製造業が混在する、いかにも「愛知の地方都市」という場所である。

トヨタのような大企業城下町ではない。だからこそ、特定の産業に縛られない。何でも作れる中小製造業の集積地として、この地域は戦後を生き延びてきた。

前田昌美はそこで生まれ、そこで会社を作った。東京でも大阪でも名古屋でもなく、江南市で。

開発機器メーカーの真隣りを疾走する名鉄特急。電子開発というデリケートな業務だったと推測されるが、騒音が気にならないのだろうか。繊細なのか無神経なのか良くわからないロケーションだ。
開発機器メーカーの真隣りを疾走する名鉄特急。電子開発というデリケートな業務だったと推測されるが、騒音が気にならないのだろうか。繊細なのか無神経なのか良くわからないロケーションだ。


■出発点は「下請けの券売機」


1971年(昭和46年)4月16日、愛知県江南市に、エレクトロニクス関連機器の製造・販売を目的としてサン電子株式会社を設立。最初の仕事は立石電機(現・オムロン)の単能式自動券売機の製造だった。

前田、38歳の春だった。

券売機。地味だ。しかし当時の文脈で考えれば、これは賢明な選択だった。一宮の立石電機(現オムロン)は、当時すでに自動化機器の雄として日本中に知られた企業だ。その下請けに入ることは、技術を学ぶ最速のルートでもあった。

ここで少し、「オムロンとパチンコ」という話を挟んでおきたい。

アミューズメント・ゲーミング業界に長くいた者として肌で感じてきたことだが、尾張のものづくりとパチンコは最初から同じ根を持っている。オムロンはその後、遊技機向けセンサーや制御機器の専門子会社を設立するほど、パチンコ産業と深く結びついていく企業だ。サン電子が最初にオムロンの下請けに入り、その後パチンコ管理コンピュータに手を出したのも、この土壌の上に立っていたからに過ぎない。

「下請けは入口に過ぎない」という意識が、最初からあったのだろう。技術を盗んで、自分のものを作る。これが前田の流儀だった。

SUNSOFTクロニクルより抜粋。券売機は小田急線のものだったようだ。名鉄が隣を疾走しているというのに。
SUNSOFTクロニクルより抜粋。券売機は小田急線のものだったようだ。名鉄が隣を疾走しているというのに。



第四章 1974年、パチンコ屋にコンピュータを持ち込んだ男

創業から3年。サン電子は最初の自社製品を世に出す。

1974年(昭和49年)5月、パチンコホール用コンピュータを開発し、販売開始。

なぜパチンコだったのか。答えは地理にある。

名古屋はパチンコ産業の聖地だ。日本で最初の営業パチンコ店は名古屋で生まれたとされ、現代パチンコの礎を作った「正村ゲージ」の考案者・正村竹一は岐阜市の茜部で生まれ、名古屋でパチンコの原点を作った人間だ。江南から南へ20キロ走れば、パチンコホールがひしめく名古屋市内に出る。その業界が「コンピュータ管理」を必要としていることに、前田はいち早く気づいた。

当時のパチンコホールの経営管理は、どんぶり勘定もいいところだった。玉の数も売上も「だいたいこんなもんやろ」という世界。そこへ江南の電機メーカーが、LEDランプを採用した先進的な管理システムを持ち込んだ。

こうして「SUNTAC」ブランドが誕生した。このブランド名は後に、モデムの会社としても有名になる。が、それは後編の話だ。 尚、パチンコホール用コンピューターの開発は1971年にエース電研がTDKと共同開発した物が最初とされる。1974年はサン電子だけではなく、ダイコク電機(名古屋市)もホールコンピュータを発売した事もあり、パチンコ台の電子管理への過渡期だったことが推測される。


サン電子HPより抜粋。ホールコンピューターとはパチンコホールでお客さんが打ち込んだ数や大当たり等で払い出された球数等の管理を行うもの。LED表示でより分かりやすい商品だったようだ
サン電子HPより抜粋。ホールコンピューターとはパチンコホールでお客さんが打ち込んだ数や大当たり等で払い出された球数等の管理を行うもの。LED表示でより分かりやすい商品だったようだ

第五章 コーヒーマシンと麻雀も作った

パチンコ管理の次に、前田が手をつけたもの——それが業務用コーヒーマシンと全自動雀球システムだった。

コーヒーと麻雀とパチンコ。「結局は何屋なんだ」

しかしここに、サン電子という会社の本質がある。前田にとって「何屋か」という問いは意味を持たなかった。「面白そうかどうか」だけが判断基準だった。

その哲学が会社に染み込み、やがてゲームを作り、イスラエルのベンチャーを買い、FBIのiPhoneを解析することになる——とは、この時点では誰も知らない。

SUNSOFTクロニクルより抜粋。やたらと多機能なところにサン電子の個性が出ている
SUNSOFTクロニクルより抜粋。やたらと多機能なところにサン電子の個性が出ている

───────────────────────────────


第六章 1978年、ゲームに参入する

1978年(昭和53年)10月、業務用(アーケード用)テーブル型ビデオゲーム機を開発し、販売開始。

ブロック崩し系の、地味なスタートだった。しかしこれが後のSUNSOFTの原点となる。

さらに1981年5月、音声合成技術を採用した業務用ゲーム機「スピーク&レスキュー」を開発し、販売開始。

音声合成。1981年のアーケードゲームで、すでにこれをやっていた。「変態技術集団」としてのSUNSOFTの素地は、ゲーム参入初期から始まっていたのだ。

そして1980年、愛知県江南市に本社ビルが完成する。券売機の下請けから9年。コーヒーマシンを作り、麻雀システムを作り、パチンコ管理でSUNTACブランドを立ち上げ、アーケードゲームに参入し——その全ての収益を持ち帰った江南市に、ついに自社ビルが建った。

前田昌美、47歳。

この本社ビルは今も江南市にある。SUNSOFTが農民ゲームで日本を席巻しようとしていた時代も、アメリカ法人がゴルフ場で瀕死になった時代も、香港ファンドに叩き起こされた時代も——ずっと江南市にある。

SUNSOFTクロニクルより抜粋 ゲーム機参入第一弾。下の岐阜特機はゲーム筐体の卸会社で現在も存続。
SUNSOFTクロニクルより抜粋 ゲーム機参入第一弾。下の岐阜特機はゲーム筐体の卸会社で現在も存続。

───────────────────────────────


第七章 PC事業という寄り道、あるいは本気(1984〜1991年)

ゲームと並行して、サン電子はPC事業にも手を突っ込んでいた。

1984年、自社ブランドのパソコン「SUNTAC-PC」シリーズを開発・販売。1987年にはIBM互換機向けチップセットを開発・販売開始。そして1991年、ノート型パソコン「VANY」を開発・販売開始する。

ここまでは記録として残っている事実だ。

一方、「このチップセットが台湾のPC互換機メーカーに広く採用され、台湾市場で相当のシェアを獲得した」という話がゲーム史のコミュニティでは語られている。しかし俺が調べた限り、この話を裏付ける一次資料は見当たらなかった。Wikipedia含め、「チップセット開発・販売」という事実は確認できても、「台湾市場50%」という数字の出所が追えない。

だからここでは正直に書く。「と言われているが、一次資料が見当たらなかった」。

ただ事実として言えるのは、サン電子は1980年代にゲームと並行してPC向け半導体まで開発していたということだ。ゲーム会社ではなく、何でも作れる電機メーカー——その本質を示すエピソードとして、PC事業は確かに存在した。

SUNTAC-PC。84年にPC本体と一体型のFDDは珍しかったと記憶している。開発力は本当に高い。
SUNTAC-PC。84年にPC本体と一体型のFDDは珍しかったと記憶している。開発力は本当に高い。


───────────────────────────────


第八章 1985年、ファミコンへ参入──SUNSOFTブランドの誕生

1985年、「スーパーアラビアン」でファミコン市場へ参入。ここからサン電子のゲーム部門は「SUNSOFT」というブランドを確立していく。

そして同年、生まれたのが伝説の『いっき』だ。

農民・権兵衛と才蔵が鎌一本で代官屋敷に突っ込んでいくという、歴史の教科書が泣くような設定のゲーム。理不尽な難易度と相まって、なぜか当時のゲーマーの心の奥底に刻まれた一本になった。

しかしSUNSOFTの本当の凄みは、「いっき」の荒削りさとは別のところにあった。

ファミコンの内蔵音源のDPCM(音声波形)チャンネルを、拡張チップなしにソフトウェアだけで使いこなすという離れ業。1987年発売の『水戸黄門』では音声合成まで実現してしまう。「この時代のファミコンでそれやる!?」という、エンジニアの変態的なこだわりがここに宿っていた。

「ギミック!」「へべれけ」「ブラスターマスター」——これらの名作は当時ほとんど売れなかった。しかし後世のレトロゲームファンに「なぜ当時気づかなかったんだ!」と嘆かれることになる。

天才の悲劇というのは、いつも「当時は売れない」という形をとる。

当時小学生だった俺の心に深くの刻まれたCM。「いっき」売上本数は数十万本のスマッシュヒット


水戸黄門。がんばれゴエモンにパッと見似てるが気にしない。販売も当然後発だ。パクリではない。

───────────────────────────────


第九章 海外展開と拡大期──バットマンと農民が並走した時代

SUNSOFTは国内だけに留まらなかった。海外市場にも積極参入し、「バットマン」「アダムス・ファミリー」といった大型ライセンスを次々と獲得。愛知県江南市の会社がバットマンを作る時代が来た。

NESではグラフィックとサウンドの両面で業界最高水準と広く認められ、海外での評価は国内よりも高かった。「日本では売れなかったが、世界では評価された」というパターンは、日本のゲーム史において珍しくない。しかしSUNSOFTはその典型例の一社だった。

こうした海外展開を支えるため、サン電子はアメリカ法人を設立。拡大路線を突き進む。

1990年代初頭のサン電子は、順風満帆に見えた。

しかし、パームスプリングスに落とし穴が待っていた。

TECMOの忍者龍剣伝にインスパイアされているが、出来はものすごい。近年プレミア価格が付いている。


───────────────────────────────


第十章 1995年、ゴルフ場で死ぬ


1995年2月。カリフォルニア州にあったSun Corporation of America(サン電子のアメリカ子会社)で緊急の会議が開かれていた。唐突の会社閉鎖。

当時の混乱は、後にその場に居合わせた元プロデューサー、René Boutinがインタビュー記事として証言している。


「開発部門トップのDavid Sillerが突然Universal Interactiveへの転職を告げたと思ったら、数日後には全員が会議室に呼ばれ、社長が即日閉鎖を宣言した。生産・QA・マーケティング部門はその日で終わり。後でわかったことだが、Sun Corporationがパームスプリングスのゴルフ場投資で数百万ドルを失っていた。それが俺たち全員の職を奪ったんだ」と。

(出典:Boutinへのインタビュー記事 dromble.com、2012年)


このとき開発中だったゲームが2本あった。

ひとつは『Looney Tunes B-Ball』。バッグス・バニーやタズなどルーニー・チューンズのキャラクターが登場する2対2のバスケットボールゲームで、NBA Jamのノリをそのままルーニー・テューンズで再現したSNES向けタイトルだ。閉鎖直前、任天堂への品質審査の真っ最中だった。こちらは日本本社側が発売作業を引き継ぎ、1995年に無事リリースされた。

Looney Tunes B-Ballがこれ、キャラクターがぬるぬる動く良作のバスケゲーム

もうひとつが『スピーディー・ゴンザレス:ロス・ガトス・バンディドス』。ソニックのヒットを意識して「メキシコ最速のネズミ」スピーディー・ゴンザレスを主役に据えた横スクロールアクションだ。猫軍団「ロス・ガトス・バンディドス」に仲間のネズミたちを誘拐され、スピーディーが助けに行く。開発はSunsoft、しかし発売はAcclaim Entertainmentというクレジットで1995年に北米リリースされた。これは会社消滅の余波である。

日本タイトルは「それゆけ!スピーディー・ゴンザレス」ソニック・ザ・ヘッジホッグの二番煎じゲーム

2本とも消える事なく世に出た事は唯一の幸いだったと言える。会社が死んだ後、ゲームだけが這い出てきたような話だ。

ゲームメーカーとしての死因が「ゴルフ場」というのは、後世に語り継ぐべき教訓だと俺は思っている。「多角化は大事だが、ノウハウが無い事業参入はやめておけ」


ここで少し、「ゴルフ場とゲーミング業界」という因縁話を挟んでおきたい。

サンソフトのアメリカ法人がパームスプリングスで苦戦していた1990年代、同じ“遊び”を扱う企業群の中でも、異なる動きが見られた。

パチンコメーカーの雄、HEIWAもまた、ゴルフ場経営に手を出し、一度は損失を計上して撤退している。バブルの残り香と、業界に滞留した資金が、なぜかゴルフ場へと流れ込んだ時代だった。

しかしHEIWAは、そこで終わらなかった。

捲土重来を期して再びゴルフ事業に乗り出し、PGMホールディングスを傘下に収め、さらにアコーディア・ゴルフを買収。

いまやゴルフ事業は、同社の収益を支える柱のひとつとなっている。

同じ「ゴルフ場」という舞台で——

サンソフトの海外展開は1990年代に静かに幕を下ろし、HEIWAは世界有数のゴルフ場保有企業へと成長した。

ゴルフ場は、選んだ企業の命運を分けたのである


───────────────────────────────


前編を締めくくるにあたって

1971年、一宮のオムロンの下請けとして産声を上げたサン電子は、24年間で何をやったか。

パチンコ管理でデジタル化の旗手となり、コーヒーマシンと麻雀でものづくりを試し、アーケードゲームで技術を磨き、台湾のPC市場を半分制圧し、ファミコンで変態技術を炸裂させ、バットマンを作り、そしてアメリカのゴルフ場で瀕死となった。

しかし江南の本社は、まだ生きていた。

前田昌美が江南に建てた本社ビルは、1995年の冬も変わらず尾張平野に立っていた。

後編では、その「死後」から話を始める。パチンコ液晶の中枢を担い、モデム屋と呼ばれ、そしてイスラエルで世界を変えるまでの話だ。


▶ 後編:「モデム屋からFBIのiPhoneへ──セレブライトと令和の農民」につづく


───────────────────────────────

参考資料

■ 一次資料・公式資料

・サン電子株式会社 公式コーポレートサイト(https://www.sun-denshi.co.jp)

・サン電子株式会社 IRライブラリ・各年度有価証券報告書(https://www.sun-denshi.co.jp/ir/)

・SUNSOFT 公式サイト(https://sunsoft.jp)

・The History of Sunsoft Volume 1 著:Stefan Gancer 発行:Press Run / Limited Run Games(2022年) ※一次インタビューと一次資料をもとにした公式書籍。224ページ。英語版SUNSOFTクロニクルに相当する


■ 二次資料

・Sun Corporation - Wikipedia 英語版(https://en.wikipedia.org/wiki/Sun_Corporation)

・サン電子 - Wikipedia 日本語版(https://ja.wikipedia.org/wiki/サン電子)

・Cellebrite - Wikipedia

・平和(パチンコ) - Wikipedia ※ゴルフ場コラムの参照に使用


■ インタビュー証言

・René Boutin(元Sunsoft of Americaプロデューサー)インタビュー 掲載:dromble.com(2012年10月) ※第十章「ゴルフ場で死ぬ」の証言の出典


■ ゲーム研究・アーカイブ資料

・The Cutting Room Floor「Speedy Gonzales in Los Gatos Bandidos」(https://tcrf.net/Speedy_Gonzales_in_Los_Gatos_Bandidos)  ※アメリカ法人閉鎖時の開発状況の出典

・Wikipedia英語版「Speedy Gonzales: Los Gatos Bandidos」(https://en.wikipedia.org/wiki/Speedy_Gonzales:_Los_Gatos_Bandidos)

・Wikipedia英語版「Looney Tunes B-Ball」(https://en.wikipedia.org/wiki/Looney_Tunes_B-Ball)

・The History of Sunsoft Volume 1 著:Stefan Gancer 発行:Press Run / Limited Run Games(2022年) ※224ページ。一次インタビューと一次資料をもとにした公式書籍


■ 写真資料

・サンソフトクロニクル(写真集) ※文献としての引用はなし。当時の製品・オフィス写真の視覚的参照として使用


■ 未確認情報について

コメント


bottom of page